織田哲郎

織田哲郎

2019/06/25

  • 【織田哲郎 あれからこれから Vol.23】デビュー直後、自転車の2人乗りで骨折…夏のイベントはすべてキャンセルに

    ★(23)長戸大幸さんの勧めで、私とギターの北島健二、それに長戸さんの弟である長戸秀介を加えた3人で「WHY」というユニットを結成しました。私と北島は音楽にしか興味がなかったのですが、秀介くんは当時ディスコでブイブイ言わせるタイプだったので、たしかに良い形で化学反応が起きればとても面白いものになった
    2019/06/25夕刊フジ
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2019/06/18

  • 【織田哲郎 あれからこれから Vol.22】覆面バンド“ほうれん草力”で私の名前は“エディ・ブルース”だった…

    初めてレコーディングというものに参加した曲『ポパイ・ザ・セーラーマン』がその後、ディスコで大ヒットしていると言われ、半信半疑で新宿のディスコに行くと、本当に自分が歌った曲に合わせてみんなが振り付けを付けて踊っていたのです。とても不思議な気持ちでした。その曲は「スピニッヂ・パワー」つまり“ほうれん草力
    2019/06/18夕刊フジ
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2019/05/28

  • 【織田哲郎 あれからこれから Vol.19】大学の音楽サークルに入るも…先が見えない不安で鬱状態に

    ★(19)北島健二たちとやっていた『強力速乾バンド』は北島以外も演奏は相当ハイレベルでしたが、いかんせんメンバーの音楽的な志向がバラバラ。とりあえずレッド・ツェッペリンならみんな納得するということで、主にツェッペリンのコピーをしていました。当然バンドとしてプロでやっていける状態ではありません。そんな
    2019/05/28夕刊フジ
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2019/05/14

  • 【織田哲郎 あれからこれから Vol.17】気にくわない担任教師と連日大げんか… 結局転校に

    ★(17)初めてのバンド「ポテトズ」を結成し、バスケット部の活動も楽しく、充実した高校生活でしたが、高1の担任がなかなかの問題教師だったのです。彼はお気に入りの女生徒を数人ピックアップして、常に職員室にはべらせてテストの採点までさせていました。私は例によって気にくわない教師には徹底的に反抗しないと気
    2019/05/14夕刊フジ
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2019/04/30

  • 【織田哲郎 あれからこれから Vol.16】高校の文化祭で初めて組んだ…人生で“最も楽しかった”バンド

    高校1年生になって、私はバスケット部に入りました。そこで同じクラスにもなったW君と気が合い、とても仲良くなりました。かなり真面目に部活に明け暮れる日々を送っていましたが、その年の秋、この学校で初めての文化祭が行われることになったのです。「これは絶対バンドを作って演奏しなければ!」と思いました。中学か
    2019/04/30夕刊フジ
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2019/04/24

  • 【織田哲郎 あれからこれから Vol.15】音楽の話通じて知り合ったM君…その歌唱力に「心からすごい!」

    私が高知の学校に転校したのは1973年、日本中がフォークブームの頃です。井上陽水『氷の世界』、かぐや姫『神田川』、チューリップ『心の旅』、ガロ『学生街の喫茶店』などがリリースされ、前年に『元気です』をリリースした吉田拓郎さんもそれこそ最も元気な頃です。なので、寮ではとりあえずフォークギターを持ってい
    2019/04/24夕刊フジ
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2019/04/09

  • 【織田哲郎 あれからこれから Vol.13】英国から帰国、高知での学校生活は「自分が異物」と認知された感覚に

    ★(13)日本で言えば、高校に進学する年、父親は英国での任期がまだ残っていましたから、私だけが先に帰国することになりました。すべての科目で日本と英国ではまったく内容が異なるので、英国の学校に3年もいると、日本に帰ってから授業についていくのが難しくなるだろうという判断です。私の両親はともに高知県の出身
    2019/04/09夕刊フジ
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2019/03/26

  • 【織田哲郎 あれからこれから】あんなに「かわいい」言われてたのに… 英移住2年で背が伸びゴツくなり、アイデンティティ・クライシス

    英国での最後の半年はロンドンの自宅から近所の学校に通いました。当時、週末だけ日本人の子供に日本の教科を教える塾のようなものがあったのです。その頃の英国は、まだ相当はっきりした階級社会で、その学校は大学に行くヤツなんていないような学校でしたから、通い始めた途端に自宅の大家さんの態度が変わったのが印象的
    2019/03/26夕刊フジ
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2019/03/22

  • 【織田哲郎 あれからこれから】「俺は一生極貧生活だな」と覚悟できた… 英国学校での「油絵」授業

    1971年9月から1年間、英国の「St.John’SCollege」という学校にいたことで、人生に大きな影響を受けたのは美術の授業で油絵を習ったことです。油絵を描くことが何より楽しくて「将来画家になる」とその時点で決心しました。それまでぼんやりと「漫画家になりたいなあ」とか思っていたんですが、初めて
    2019/03/22夕刊フジ
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2019/02/18

  • 【織田哲郎 あれからこれから】中学入学、いきなり学級委員長に立候補し…

    1970年、大阪万博の年に私は中学校に進学しました。この中学校は、2つの小学校から生徒が進学するので、クラスの半分は初対面です。入学式の日に初めて会った、違う小学校からきた奴に突然、「俺、学級委員長に立候補するから、お前、副委員長な」と声をかけました。いきなり、バカ全開です。当然、誰も立候補する人間
    2019/02/18夕刊フジ
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2019/02/05

  • 【織田哲郎 あれからこれから】“迷子散歩”の常習犯で大ケガも…母親と兄から「このゴキブリ!」

    前回、自分が今なら発達障害と診断されるであろう子供だった話をしました。今回もう少しその話をしますね。小学校入学の際に、うちの両親は「普通の学級では難しいと思います」といったん言われているのです。幸い、そのときの担任の先生が「私が責任持ちます」と言ってくださったおかげで、なんとか普通のクラスに入れても
    2019/02/05夕刊フジ
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2019/01/29

  • 【織田哲郎 あれからこれから】高校生の頃すでに「決定事項」だった…プロとして音楽で食べていくこと

    勝手にPCに消された織田哲郎です。多分うちのPC的にはつまらんから全部書き直せと。そういう愛のムチだったのではないかと、はい。気を取り直して書き直していこうと思いますが、まあなんというか気がつけば音楽家として、さまざまなことをやり倒して40年。ただ、私の場合メモリー機能が半壊状態といいますか、良く言
    2019/01/29夕刊フジ
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2019/01/22

  • 【織田哲郎 あれからこれから】一過性ではない普遍的なメロディー 今も作ってはやめての繰り返し

    周年を迎えた作曲家、織田哲郎(60)。屈指のヒットメーカーが山あり谷ありの半生などをつづるコラムスタートに先駆けての直撃インタビュー。後編はメロディーメーカーとしての生みの苦しみや、ロックバンドへの思いを熱く語った。プロとしての矜持。それが普遍的なメロディーだ。「おどるポンポコリン」も「負けないで」
    2019/01/22夕刊フジ
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2019/01/15

2018/04/15

2018/03/11

2017/12/24

2017/10/03

2017/08/27

2017/07/13